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2010年9月30日木曜日

全編英語の日本映画「トイレット」

「トイレット」という映画を見てきました。
荻上直子さんが監督の作品で、正真正銘の日本映画だけど、撮影はすべてカナダのトロントで行われ、キャストも日本人はもたいまさこさん一人だけ、台詞もすべて英語という少し変わった作品です。
荻上直子さんは「かもめ食堂」の監督さん。私は「かもめ食堂」を見たことがなく、この監督の作品は初めて見ました。

モーリー、リサ、レイの3兄弟は、母親が死んだ後、ともに母親が残した家に住み始めます。そこには、母親が死ぬ前に日本から呼び寄せた兄弟の祖母、「ばーちゃん」がいるのですが、「ばーちゃん」は英語がまったく話せず、ふさぎこんでずっと部屋にこもりきり。そして「ばーちゃん」は、なぜかトイレを出た後に、かならず深いため息をつく・・・。
3兄弟ははじめは「ばーちゃん」とどう接してよいか分からず戸惑うばかりでしたが、言葉が分からないながらも徐々に交流し、絆を深めていきます。

映画は全編にわたってまったりと進み、起伏の大きい作品とはいえません。
人によっては、退屈だと思うかも・・・。でも、私にとってはいろいろと考えさせられる映画でした。

言葉が通じない同士でも、心を込めて向き合うことの大切さはこの映画の全編にあふれています。英語が分からなくても、孫たちのやりたいことを理解し支えてくれるばーちゃん。何も言わずに差し出されるばーちゃんお手製のギョーザ。
言葉が分からなくても、絆を深めることができます。

でも、それだけではありません。
あまり書くとネタバレになってしまいますが、この映画の最後のクライマックスで、ずっと台詞のなかったばーちゃんが一言だけ、英語をしゃべる場面があります。
たった一言ですが、この台詞がモーリーの窮地を救うのです。
英語を話す、つまりばーちゃんにとっては「孫の言葉を話す」ということ。
「相手の言葉」を話すことで、自分が相手に向けているまなざしを、相手に気づいてもらうことができる。
あのシーンでのモーリーにとって、ばーちゃんが自分へ暖かなまなざしを向けていると気づくことは、大いに救いになっただろうなと感じました。

英語という「他者の言葉」を使うことの意味。そして自分が今それを勉強していることの意味。
そんなことになんとなく思いを馳せました。

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